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コロナ後の世界~政治、経済と社会

「今年の世界の公的債務は第2次世界大戦時を抜いて過去最大になる」

 そんな書き出しで驚かせるのは、日経(8月3日)のオピニオン「核心」である。論説委員長の藤井彰夫氏は、世界は未曽有の「大借金時代」に入ったと指摘する。そして、これは巨大な借り手となった国家の信用をめぐる競争の時代でもある、と。

 では「借金先進国」である日本はどうなるのか。「愛があるうちは大丈夫」。これはつまり、将来は増税などで借金を返せるという、国民から政府への信頼感あって成り立つ、という意味だ。それが崩れたとき、国民は政府を見放し、急激な資本流出による円安、ハイパー・インフレ、金利上昇が起き、財政は破綻する。こうした「危機シナリオ」は、杞憂にすぎないのか。

 コロナ対策による歳出の急拡大で、「ワニの口」といわれる日本政府の歳出・税収のグラフは上アゴが外れたような形になってしまった。「もっと借りても大丈夫」などと、際限なく借金を重ねていくのか。いまが実にきわどいがけっぷちなのかもしれない。

 大阪大名誉教授の猪木武徳氏は、民主主義社会の根幹にかかわる、と警鐘を鳴らす(日経8月5日)。ここ四半世紀の技術革新は、「人と人との直接の接触を減らす方向への変化であった」とし、今回のパンデミックがその傾向をさらに強める、と指摘。これでは、相互理解の努力をしつつ連携する精神が弱まるのではないか。そう、肝心なのは「公共意識」である。社会的距離を取るという、新様式のマナーは「人々の匿名性が高まり公共精神をはぐくむ力は弱くなるであろう」。それはゆくゆくは「健全なデモクラシーの屋台骨を切り崩しかねない」。

 朝日新聞(8月4日)に面白い寄稿があった。音楽学者の岡田暁生氏である。距離をとることが世界的に求められるいま、ベートーベンの第九は最も上演が難しい音楽になってしまった、というのだ。おりしも今年はベートーベン生誕250年という記念の年。

 「ベートーベンは今、250年の時を経て私たちに問う。これまで「第九」で歌い上げてきた理想社会を、君たちは嘘だったと言い切るのか。それとも君たちは、この「第九」の理念を真に自分たちのものにするため、再び本気で立ち上がるつもりなのか、と。

 猪木氏も言っているように、むしろのこの災禍を奇貨として、流れに抗しつつ、将来への善き転換へのヒントを自律的に探りたい―。このスタンスが必要ではないか。かつて、社会心理学者の加藤諦三氏が指摘していた(朝日3月19日)。

 「コロナウイルスが流行するこの時代に生きていることは、「不幸」です(中略)こんな不幸はないにこしたことはない。でも、生きていると必ず起こりうるものです。つまり、不可避的な不運を拒否するのは、人間の可能性と人生の意味を受け入れていないことに等しいのです(中略)受け入れて初めて、自分の人生のために、次に何をすればいいかが具体的に見えてきます」